ここ数年で急速に薄れてきましたが、
我々日本人にとって、盆正月と言えば、大きな区切り目。
働いてる人も休みを与えられて、慌ただしい中にも一家団欒を感じる日ですよね。
同じように、世界中の人にとってはクリスマスは大切な日だろうし、
アジア圏では旧正月が重要な意味をもってたりします。
パーソナルな祝日としては、誕生日も凄く大事にされますよね。
キャバ嬢だけじゃなく、クラスメイトや、友達同僚、みんな誕生日を祝いあいます。
離れてる仲間同士なら、最近ならメッセージアプリで気持ちを伝えるんでしょうか。
とはいえ、あたくし個人は、誕生日なんてどうでもいいです。
いや、子どものころも、祝ってもらったんですよ。
おもちゃ買ってもらったりしてたと思います。
あと、おばあちゃんが決まってケーキを買ってきてくれるんです。
ま、甘いものが嫌いな僕にとっては、それが一番イヤだったんですけどねw
祝ってもらっておいて、恩知らずみたいですが、どうも誕生日を祝われるっていう意義が見いだせません。
その日が過ぎたら成長する。ってわけでもないし、年齢なんて生物学上の区切りでしかないでしょう。
日本ハムの大谷くんは10代で話題性以上の活躍をしてるし、
中日の山本さんは五十歳前でも先発ローテーションに入ってます。
そんな通過点を祝うなんて、どれほどの意味があるのでしょうか?
とはいえ、愛妻にはそれなりに接しますし、今では子どもの教育のために素直に祝われてと、指導されてます。
子どももお父さんの誕生日の日は、ソワソワうれしそうだし、絵を描いて壁にはったり、部屋を飾り付けをして盛り上げてくれます。
そういう姿を見て、逆に誕生日も良いものだと思い始めた30代後半です。
で、よく道徳的な話として、誕生日は祝われるものじゃない。産んでくれた母親に感謝する日だ。っての。
あるじゃないですか?
確かに素敵な考え方だし、理にかなってるんですが、なぜかしっくり来なかったんです。
原理が応報感情そのものだし、「産んでくれた」って概念は生前の意思が存在する前提であり、、、
みたいな難しい話が気になってしょうがありません。哲学部じゃないんですけどね。
逆に、子どもが産まれて、素直に言ってしまうのが、
「うちの子に産まれてきてくれてありがとう」
です。
子どもは親を選べないとはよく言ったものですが、親も子ども、なかなか選べないですから。
初めてオギャーと叫んだ日から、今日までよく育ってくれたなって、毎年思います。
娘は私に恩を着せるために生きてる訳じゃないけど、心から感謝した気持ちがあふれます。
そんな、誕生日の素晴らしさが、ちょっと分かってきた今日この頃。
facebookでは青柳さんの誕生日おめでとうメッセージがあふれています。
仲間の信頼も厚く、良い意味でも悪い意味でも男性に好かれる青柳さん。
裸の付き合いです。(これは良い意味限定ねw)
エネルギーがあふれるお母さん、
息子との距離を測りながら静かに話すお父さん、
美人の奥さん、
お父さんの頭を棒でボカボカ叩く以外は、非常に礼儀正しいお兄ちゃん、
人見知りしない赤ちゃん、(がんばれ!おっちゃんも味方やで!!)
そして、街を歩けばあっちこっちから声をかけてくれる同級生やお友達。
本当に70年代のホームドラマのような環境のなか、愛に生きてる青柳さん。
多分みんな、産まれてきてくれてありがとう、って思ってると思いますよ!
また、奥さんに隠れてウマイもの食べましょう!